9月末の大阪日日新聞で、
竜崇縫靴店を掲載して戴きました。

大阪以外にお住まいの方にもぜひ
読んでほしい素敵な記事なので紹介します。

許可していただいた日日新聞の記者さん
取材してくださった横道 仁志さん
本当にありがとうございます。

大阪日日新聞
2020年9月29日(火) 9面

美術 いま関西で 62 (横道 仁志)

竜崇縫靴店

「芸術」とは何かなんて小難しい問題ばかりに
頭を悩ませていると、その裏にある「技術」の
面白さをついつい忘れてしまいがち。
そんなわけで今日は読者の皆さまに、それなしでは
一日の始まりを一歩たりとも踏み出せない、
最も身近な技術の産物をご紹介したい。
そう、靴です。

竜崇縫靴店という靴職人のコンビがいる。
決まった店舗を持たないで、
大阪のカフェMole&Hosoi、神戸の眼鏡屋折角堂
京都の民具店PINT
など関西各地で定期的に受注会を開く。
堀場崇夫と久保竜治。

2人とも30代になったばかりの気鋭で、
彼らが巡業する店もみずみずしい感性に溢れている。
2人は脱サラして西成の製靴塾で厳しい師匠に
靴作りを学んだ。もっとも、手取り足取り教えてもらうのではなく、
寿司屋の修行よろしく技を必死で盗まないといけなかったそうだけど。
木型作成、パターンメイキング、革のカッティング、
縫い付けなど、靴作りの工程は細かく多岐にわたるので、
普通は作業ごとに専門家がいる。自社製を謳いながら、
多くの工程を外注に負っているメーカーは多い。
しかし、竜崇の2人はほぼ全工程を分担して靴を作る。
オリジナルの木型を削り出すところから始め、
この木型にテープを貼ってそこに
革をどう貼り付けるかのパターンを描く。
革の厚みとか縫いしろとかをきちんと
計算できていないと、実際に革を
縫い合わせようとしてもうまくいかない。
「想像力」はけっして芸術の専売特許なんかじゃない。
手わざに生命を吹き込むのだ。

竜崇はこのいちいちの工程に多大な時間と
労力をつぎ込む。たとえば普通のメーカーなら
接着剤で革を貼り合わせるところを手縫いする。
使用する糸ひとつ取っても、市販の糸をわざわざ
ほぐしてから撚り直してこより状にしたうえで、
松やにとごま油を混ぜた”チャン”をこすりつけて
針に通すといった具合だ。松やにとごま油の適度な
配合も、季節ごとの気温と湿度によって
そのつど変わる。チャンを練る際の指の感触から、
経験に照らし合わせて注意深く判断するしかない。
下世話な話で恐縮ながら、彼らの靴の価格をこうした
細やかな手作業にかける製作時間で割ると、
その時給はコンビニバイトよりもなお安い。
高級靴のブランドは、しばしば手間のかかる作業を
奥義であるかのごとく吹聴して、その分値段を
吊り上げる。ところが竜崇の2人は
「作業に労力がかかるのは技術の未熟が原因だ」
として、かえって靴の値段を抑える。
より多くのお客に手に取ってほしいからだ。
同じ理由から、彼らは面と向かってお客と話し合いながら
靴を提案するという方式を選ぶ。
ショップの従業員は売り上げを気にして、
サイズの合ってない靴をよく客に勧める。
でもそれはフェアじゃない。
業者がお客を騙すのも確かに問題だ。しかし、
ブランドに目がくらみ靴そのものを見ていない
という意味でお客も作り手に対してアンフェアなのだ。
だから、竜崇は各地の店舗を巡業する。自分たちが
「素敵だ」と感じる店に来るお客に竜崇の靴を見てほしい。
そして、そんなお客とつながりたいから。

そこで話は最初に戻る。竜崇の2人は自分たちの靴を
「道具」と呼ぶ。形は重要じゃない。
オシャレに興味がない人にも末永く
使ってもらえるような、相棒としての靴。
ファッションを「芸術」という美麗字句の裏で
使い捨てるのが当たり前の時代なら、彼らは
その当たり前を拒否して、人と人のつながりに立ち返る。
実を言うと、これは最近の若いデザイナーたちに
芽生えつつある価値観でもある。
作り手と受け手の溝が埋め合わされるわけではない。
完成品をいくら眺めても、その靴ができるまでに
どれほどの心血が注ぎ込まれたのかを
受け手が理解することなど、できはしない。
しかし1年、2年、10年と履き続けていくなら、
まさにその人生の足跡が竜崇の仕事に対する最高の賛辞ともなるだろう。
芸術という気取った言葉が見えなくしてしまうこの当たり前が、
2人の使う「道具」という言葉に込められている。
直近のイベントは、京都御所東のPINTで10月2〜4日まで
<革靴とブーツ展>。いま全国に進出しようとしている彼らの
丹精の成果にぜひ足を通して見てほしい。

(慶應義塾大学 非常勤講師)